昭和44年05月29日 朝の御理解
御理解 第11節
「神は天地の守りじゃから、離れることはできぬぞ。」
「神は天地の守りじゃから、離れることはできぬぞ」という事は、「神は、氏子の守りじゃから、離れることはできぬぞ」とも頂けると思いますね。天地を守って下さってあるという、天地の中に住む人間は、皆んな神の氏子と仰る。神様の氏子です。ですから天地の中に天地を守って、守ってござる。ですからこれは氏子の守じゃからとも言える。私共の神様は守をして下さってある。だから私共から離れなさる訳にはいかんのである神様は。けれども守りは守りでもですね。
見守って下さってあるというに頂ければ分かるでしょうね。見守っておって下さる。言葉を出して下さる事も出来きなければ、手足を動かして下さる事も神様は出来なさらん。いわゆる見守って下さっておる。ですからそのう言うならばお守りをして下さってある訳ですねえ私共の。それで結局守をして下さっておる者、やはり言う事が分かり言う事を聞かなければいけない事になります。はぁそらちへ行っちゃ危ないぞ危ないぞと、声を大にして例えばまぁ言うて下さっておっても、いわゆるそれを聞き取りきらん。
感知しきらなっかたらいけません。こちらへ行けばいうなら楽園があり。こちらへ行きゃ地獄だというふうにですね、そのう絶えず私共に教えて下さってあっても、それを聞き取ろうとしない。それを守ろうとしない。いわゆる我がまま勝手な生き方をするところにです、人間の不幸せがあると思うですね。だから私は、信心とはそれを信ずる事だと思う。天地の守であられるという事だけではなくて、私共が守られておるという事。ですからその守られておるその神様のいわゆる、御神意に添うていかなければ。
人間の幸せはありえないのであり、その神様の言う事を聞かせて頂くという事。いうなら、お指図に従うという事。そこにゃ道を明らかにして下さってあるから、その道を歩かして頂くという事。だと信ずる事。それが信心。御理解十二次の十二節に「神に会おうと思へば、庭の口を外へ出て見よ。空が神・下が神」と仰せられる。神様の守をして下さるいわゆるおべんで、氏子の守をして下さる神様、に会おうと思えば庭の口へ外へ出て見よとという事をです。
ここですお広前。庭の口でだけではあまりにも漠然としておる。あまりにも大きい。はぁこれが神様のお姿だとこうあまりにも大きい。あまりにも大きい。いわば大音響が天地を轟かす程に、響き渡っておるのですけれども、その大音響であるが由に却って聞こえないね。もう大変な大きな雑音の大きな音の中にあるとですね、その音が聞こえなくなるんですよ。天地の例えばこれが、天地がこう動いてござるその音響というのは、大変な事だろうとこう思う。
ものすごい勢いで天地が動いてござるのですからね。例えで申しますと熊本の阿蘇山なんかにまいりますとね、あのう阿蘇が大音響を以ってこうずうっと地鳴りをしながら、火を噴いておりますでしょう。いうならあぁいう働きがです、この中に有るのですここの天地の中に。それはその一部ちょっとこう針でつついたような所から、噴き出しておる音があれですから。もう本当言うたらもう大変な事だろうと思う。そういう例えて言うならばです、なら神様は私共にです。
その声をもってして言うて下さる訳ではないけれども。それこそ鼓膜が破れる程に大きな声で、私共に呼びかけ叫び続けてござるとです。はぁそげなこつしよっちゃ危ないぞ、そっちの道を行ったらいけんぞと言うて下さってあるけれども、それを感知するそれをキャッチし得る心が無いね。四神様二代金光様はそこんところをね、はやり歌の文句の中からでも子供の泣き声からでも、神の声を聞けと仰っておられます。それを段々信心させて頂きよりますと、はぁそれを神の声神様のお言葉として頂く事が出来る様になる。
そこんところを稽古させて頂くのがお広前。お広前にお引き寄せ頂くとです、そこに神を見そこに神の声を聞く事が出来るね。昨日は筑水連合会の幹部研修会が、ここが当番教会としておかげ頂きました。普通30名多いところで50名ぐかいしか幹部ばかりの集まりですから、集まらないそうですけれども。昨日は百十六名が集まった。初めてだったそうです。やはりなんと言うですか、合楽のひとつの魅力だと思うですね。まぁそれは合楽のお広前がこうしてまぁ建立された。
これは一辺見たいという好奇心やらも手伝っておると思うですね。一辺合楽に行ってみようじゃないかと言って、連れのうて皆さんみえられたのかも知れません。そこでですね、今私が申します、ここへ来るとそのう神に会う事が出来る。はぁこりゃはとても人間わざじゃなかばい。やっぱ神様のおかげじゃなと、例えばこのお広前の隅々を皆さん、見て回っておられましたが、みられながらそれを見られ思われたとしたら、もうそこに神を見ておられる訳です。
ここで説かして頂く私の御理解をです、はぁそうどころじゃ有りません。そうどころじゃ有りませんとして頂くならば、そこに神の声を聞いた訳です。ですからやはり庭の口を出てみただけじゃ私があまりに大きいし、あまりにもそのう大きな働きというか響きの中にあるから、私共じゃ見当もつかない程である。けれどもです、お広前にお引き寄せ頂きますと、神に会う事も出来りゃ神の声聞く事も出来る。教祖様がおっしゃってます、今迄は神がものを言うてくれる事はなかったじゃろう。
ここへ参って来るとね、神がものを言うて下さる事が有り難いじゃないかと。今迄は片便の願い捨てであったろうがと仰っられます。今まではどこどこのなんなん様というて拝んで、こちらの言う事だけを言うてくるだけじゃったろうがと。ところがここじゃ片便の願い捨てじゃない。願うそこんところがお取次ぎを願い、お取次ぎを頂くという事。お互いがお願いをする。お取り次ぎを願ったら、今度はお取次ぎを頂いて帰れる。神様の思いを頂いて帰れる。神の声を聞いて帰れる。
片便の願い捨てじゃないでしょうが、という事だけでも有り難いじゃないかと。そこでなら昨日もこうして百名からの皆さんがです、ここで果たして神の声を聞いて帰って下さったであろうか、神をここに見て下さってあろうか。私共の信心内容をいよいよ高め深めていかなければならない。これからとても例えば好奇心をもって、合楽のお広前にわきしみな人達がありましょう。一辺合楽に行ってみよう、ところがたいした事はなかった、中身は空じゃったというような事であってはならんのですよね。
ここに信心の稽古をさせて頂いておる一人一人の、その姿の中に又は、お広前に充満しておる。何とはなしにもうこれは形じゃない。はぁなんとはなしに有り難い。本当に神様の懐にかかえられておる思いが、そのう実感として頂ける程しの私はお広前、そういうおかげを頂いていかねばならんなとこう思うのです。そこでなら庭の口に出てみて神様を見ると。これはあまりに漠然としてあまりに大きいが、お広前にお引き寄せを頂くね。神に会いたいと思へばお広前の来てみよと。
そのまま御結界の座に座ってござる先生が、そのままが神様の姿である。言われる事がそのまま神様のお言葉お声であるとして、頂けるところまで信心を高めてゆかなければいけませんね、お互いの信心がね。昨日の幹部研修会の焦点、研修の焦点というのが「神の氏子としての自覚」という事でありましたね。私が今日申しております、神様の氏子としての神様に守っておいて頂いておる。そこんところを守って頂いておると自覚する。しかも見守っておって下さってあるだけではなくてです。
直接こう人間が人間にいうようにですね。には出来らんに致しましても、こちらの心が信心に向かい心が、信心がだんだんおかげを頂いて参りますと、そこに神様を見たり、そこに神の声を聞いたりする事が出来るとね、そこからいよいよ神の氏子としての、自覚が、深まって来るばかりでございましょう。そこで私はそのうまぁ一番最後に、まぁ教会長としまして、御挨拶をさしてもらいます、御挨拶の中にです、お話しをさして頂いた事でございます。
平田さんのお話しの中に、金光様の信心させて頂くと一応誰しもがです、段々神様の有り難さが分かってきて、もう毎日毎日をお礼に、お礼ばっかり申しとると言う。又はもうお詫びばっかりしておりますと、いわばお礼にお詫びに明け暮れておるようにいう。皆んなが。皆んな言いますよね。もう本当にお詫びばっかりしとります。けれどもそのお礼やらお詫びやらは、確かにしておるけれどもです。それはおかげを頂かねばならんから、お礼を言いよるのであり、おかげを頂かねばならんからお詫びをしておると。
こういうことではね条件があったらそんなことでは、お礼にもお詫びにもならんという意味の事を、言われておりましたから、私もそうだと思いました。はぁ良いこと言われるなぁとね。本当に私共がですならお詫びをしておるならば。お詫びの印がどこに出来ておるかと。本当におれいをさして、まお礼ばっかり申しておりますならば、そのお礼心というものがどういう風に、信心生活の上に現れておるかと。只おかげを頂かねばならん為に、お礼を言うとったりお詫びをしとるというだけでは。
そりゃもうすらごとを言っておるようなものだとね。そこでです。そこで私共はですね、いわゆる神様の氏子としての自覚というものがです、出来てくる前に、今日私が言っておる、神に会いたいと思えば先ずお広前に出てくる。庭の口に出てみよじゃない庭の口に出てみただけじゃない、こちらに足を向けて来い。お広前にお引き寄せ頂け。そこに神を見る事が出来るであろう。神の声を聞く事が出来るであろうと、まぁ私は今朝はそう言っておる訳です。それでもここに見る事も聞く事も出来ない人もいる。
それをキャッチする事も出来ない。神の働きがここに渦巻いておっても、それにそれを感知する事が出来ない。鋭感でありますとね、心が汚れはてておるとそれをそうと見られない。昨日は二日市教会の千種(ちぐさ)という先生、千の種と書いてある。千種という先生が委員会、会長先生ですからどこにもおいでられる、ここにも先生が見えられました。で先生のお話しをいろいろまぁ聞かせて頂いたんですけれども。私はまぁチラチラとお目にかかるのは、あっちこっちでお目にかかりますけれども。
膝付き合わせたりお話を頂いたという事は初めてございました。その先生のお話しをですね。たまたま私は先日昔ぁしです。今はありませんけれども、合楽じゃない甘木の教会に「しんあい」という新聞が出ておりました。ちょうどここで新聞を出しておるあれの倍ぐらいの広さの「しんあい」という、とてもいい新聞が出ておりました。今は廃刊になっております。三十年前に千種先生がまだ青年の教師の頃でしょうね、に書かれたものを私は読ませて頂いておった。
その中に私はどういう事が書いてあったかは、自分でも記憶しませんけれども。その中に一言だけ印象に残っている言葉があったから、その事を引用して昨日お話させて頂いたね。信心の記事をいろいろ書いておられるその中にね、親恩報謝、親恩報謝という事をいくつも書いてある、その記事の中にある。神恩報謝というのは、私共が神様の御恩に報い奉るという訳ですけれども。その神恩報謝がですね。神の恩じゃないんです。親の恩に報い奉るということなんです。
ははぁそれをあの見せてもらって感じたんです。だから私ここに印象に残っとったんです。親恩報謝、甘木がおかげを受けられる。甘木関係の人がおかげを受けられるのは、これだと私は思うた。その親恩報謝というのは、どういう事かというとね、親の恩に報謝する。もうこれに尽きるのだというような事が書いてある。金光様の御信心は、親恩報謝だと。もちろん親恩報謝というのは、親先生の意味なんです。甘木は偉かったなと思いますねぇ。信者にそれを感じさせておられた。親恩報謝。
それでです今日のテーマであったところの、昨日の言葉に私の話の中に、神の氏子としての自覚という事がです。神様と言うのはあまりに偉大である。金光大神と言うのはあまりにも高い高嶺にござる。けれども親先生なら側にござる。親先生ならばお広前に行けば会える。その親先生を親ともいや神様とも、金光大神とも仰がして頂くところからです、親恩報謝の信心が出来るのだと。この先生のおかげでこういう有り難い道を分からしてもろうた。この親先生のおかげで助かったという事になる訳です。
ならその親先生なら、金光大神に通じてござる。その親先生が天地金乃神様に通うてござるのだから、親先生親恩報謝という事は、まず手始めとしてここんところの自覚が、氏子のいわゆる神の氏子としての自覚というのは、そこから生まれて来るのだという意味の事を、私は話させて頂いた。後で直会の時に千種先生が、はぁこちらの先生の記憶の良いのに、私も驚いた三十年前の話をしよるもんですから。はぁ自分が書いておったものを、しかも三十年前に書いておった事を。
ここで今聞くと言うことはもう本当に、もう別れておった自分の何か大事なものに会った様な気がするんじゃないでしょうかねぇ。とても気分がようしとられました。私は神様が顔を立てて下さるんだと自分で思うんですよね。けれども確かにそれなんです。親恩報謝だ。それがいわば甘木でおかげを受けられたお徳を受けられたという人達の、例えば平田さん当りの信心なんかがもうこればっかり。ふたこと目には親先生なんですからねぇ。これも終戦直後に東町のある御信者さんのお宅で。
平田さんのお話を聞いた事が有りますが、そん時に物が非常に少ない時。例えばね豆腐一丁作らして頂いても、親先生にさぁ早う親先生に持って行け。そげん言うて涙をボロボロ流された事を私は記憶しております。いわゆる親先生へ対するところの憧念心なんです。それがですね親先生を通して、神の氏子としての自覚、段々今日のところですね。神は天地の守じゃから、離れる事は出来ぬぞと仰るのは。この神様は天地の守じゃから、天地を守って下さってあるという事は。
私共一人一人氏子の上にもお守り下さってあるんだと。けれどもそれはあまりにも偉大なお働きであって、それを感じきらない。だから守りをして下さっておる神様の、おいいつけと言うかね、お言葉をですね私共が分からなければいけん。そちらへ行ったら危ないぞ、そちらへ行ったらいけないぞと言うて下さる。それをこれに聞きとられるだけの、私は稽古が信心だと思う。そこから神様のこういう御守護の中にあるんだ。特別のお働きの中にあるんだという実感が、なる程親様じゃなぁ親神様じゃなあという。
神の氏子としての自覚がいよいよ深まってくるね。昨日ちょうど半ばに大阪から手紙が参りました中に、これが又同封してございました。これは泉尾教会の月刊紙です。ここの御信者さんがあちらに行っておりますから、毎月こうやって送ってくれる。もう大変な御比礼ですねぇ。御大祭の模様が何千名かの御信者が集まっておられるお写真が出ておる中にですね、こういう事が書いてある。分かるでしょう。信、信心の信という字が書いてあってね。「信は、天下第一の宝」と書いてある。
信。信はね天下第一の宝である。信がなかったら寂しい。信がなかったら人間は不安定、何を信ずるか。そういう神様のですねもう御守護の中にあるんだと。ならその御守護の中にあるだけではなくて、神様のお言い付けを自分がいつも守らして頂いておると言う所に、信が生まれるのです。どこへおっても安心なんです。寂しい事がないね。どんなに金があっても物があってもです、それだけでは寂しいんです。あぁこれだけの財産を死んで残してゆかんならんと思ただけでも寂しいでしょう。
ところが生きても死んでもと、いう程の信心を頂いておって初めて、ここに安心が生まれてくる訳ですn。なる程天下第一の宝であります。そういう信を受ける為に、又は今日私がここに申しております、天地の守じゃからと仰るが、天地の守じゃだけではない、私共一人一人の守をして下さってあるその神様。その神様のお働きを私共が感じとらして頂く為に信心せにゃいかん。その神に会う為にお広前に出てこにゃいかん。そこに神様の姿を見神様の声を聞かしてもろうて。
それを行じていくというところに、信が生まれる。同時に昨日は平田さんのお話しの中にこういう事を言うておられます。「信・公・私」と、信心信と公と、私の世界である。信心はもうすべからくこうじゃなからなければならないんだと。それに何ぞや、公の事があればそちらにぐらり。私的な事があればそちらの方へ引っ張られる。これで本当の信が生まれる筈はないじゃないか。もうその通りなんです。私が今ここで一生懸命言うておるのも、この事ばっかりなんですね。
「信・公・私」というのは、信を第一に取れ一番に取れという事なんです。信は天下の宝なのだと、例えば泉尾の先生は、そう喝破しておられる訳ですね。その信を先に取れというのです。こと信心の事であったら、私の事なんかもちろんだけれども、これは公の事であっても、これは置いて信の方を先に取れとこういうのですね。これは私がいつも申しておりますように、氏子が神様任せになれば、神様が氏子任せになって下さるとかね。氏子が神様本位なら、神様が私共本位になって下さるという事なのです。
だから神様だけは私共本位にしたいけれども、こちらの方は神様本位にいかん、自分の都合で。これではおかげの頂ける筈はないじゃないかという事を、非常に激しい言葉で平田さんはこの事を力説しておられます。御自身自分がそれをそのとこを通っておられ、御自身がこの事によっておかげを受けておられるから、それが言えると思うのですよね。そういう例えば、信、公、私という事をです、信を第一としての頂き方が出来れるような信心からしか私は。
今日私が申します神が神が氏子の守じゃからと、神は天地の守じゃからと仰るところを、今日は勿論そうです同時に神は氏子の守じゃからと仰る。神様の御守護をこのようにまで受けておるんだと、実感させて頂く為には、この信を第一としなければ駄目だという事。頂けないという事。そこで私がなら「神に会いたいと思へば庭の口に出てみよ」じゃなくて神に会いたいと思へば、合楽のお広前に来てみよね。そこに神を見る事が出来、そこに神の声を聞く事が出来るとこう私は申しております。
先程甘木の親先生の事をですね。二日市のそのう千種先生が、三十年前に言うておられるね。親恩報謝の思いうものが、憧念心にまでなってくる。憧れの念に迄なってくる。親先生に対する思いというものが。そこから親先生に通う。その親先生が金光大神に通うてござる。天地に通うてござるならば、もうそこに天地との交流がそこっから始まるのだと。そこでわたくしはですね、私共はそういう大変な事は出来ておりませんけれども、その金光大神と言うか、天地の親神様のお働きを受けておる。
このように受けておるというね、金光大神が受けておられた、そのひな型のようなものを、私は受けておると思うんです。ですからそこに天地の親神様のひな型を、ここに見る事がだから出来る訳なんです。これはここに孔子の言葉ね、支那に孔子とか孟子とかいう哲人がおられましたですねぇ。その孔子の言葉の中にね、素晴らしい事が書いてあるからちょっと読んでみましょうね。孔子の言葉に「物の集まらざるは恥にして、集めて己の物とするは又恥なり」と有ります。
孔子の言葉に「物の集まらざるは恥にして、集めて己の物とするは又恥なり」とありと書いてあるのです。ですから私はましてその天地の御守護を受けておる、天地のお守りを受けておる、人間の幸不幸の鍵を握ってござるという、神様の御信心を頂きながらです、お金に不自由しておったり、物に不自由しておるという事は、もう実に恥ずかしい恥ずかしい事だと言うのです。あっちはもう何十年信心してござる。そしてまぁだお金に不自由してござるですか。こんな恥かしい事はないちゅうんですね。
ここんところに本気でひとつ恥かしいとお互いが思うてです、そんならどういう信心にならして頂ければ、物に不自由のないおかげを受けられるかという事を、ひとつ思うてみなければいけません。そういう例えばひな型を私が頂いておるでしょうが。必要なものが必要に応じて、それは物だけでは有りません。もう人間幸せになる全てのものをです。ここに私がひな型として集めておる。それはしかもですその集めたものを、それを私のものにしては駄目だ。それは又恥かしい事だ。
ここにだからその集まってくる全てのものが、神様の御物だとして私が頂いておるという事が、ここに神を見る事が出来るでしょうが。なるほど三宅先生ですね。泉尾の先生が「信は天下の宝なり」と言われる訳が分かります。信は天下の宝なんだね。そこんところで今日は十一節の簡単な短い短い御理解の中に「神は天地の守じゃから離れる事は、出来ぬぞ」と、それはそうどころじゃないと分かっただけじゃいかん。今日のような風に分からにゃいかん。今日のお話し頂いたふうに分からないかん
。天地の守であるという事は、私共一人一人の上にも守でおありになるんだと。けれどもそこを自覚するしないという事によってです、神の声を聞く事も出来ない、神の姿を見る事も出来ない、なる程親神様じゃなあと分かる事も尚更出来ない。そこで神に会いたいと思えば先ずお広前に出て来い。お広前に出てくればそこに神を見る事が出来、神の声を聞く事が出来るんだと。そこに天地にも繋がっていけるおかげ。為には先ず、信、公、私、の別をはっきりせよという事。
信心とはその信を頂く為には、もう何をおいても信心が先だと。それはもう取り上げであろうが。ねつけであろうが、どういう公の事であろうがです。それを投げうてれるだけの信心。その信心を第一にせよと。そこからしか天下第一の宝なりと、いったような事にゃなってこないのですよ。そりゃもう今日は神様、それでおかげ頂だかなんばってん、今日はこげな風で忙しかけんと、言ったような間の時にゃ、なら神様もやっぱそんなふうに忙しかと。
昨日桂先生。小倉の桂ミツ先生のお話しが出ておりました、平田さんのお話にね。おかげを受けて早うお礼に出らんならんと思うけれど、こげな風でずぅと体が悪くて仕事が少ししか出来てなかったから。まぁ取り入れが済んでお礼に出ろうと言うて、お礼に出られた時に四神様が仰った。実はこれが本当だっけれども、と言うてお届された時にです。「災難が待ってくれと言うて待とうかな」と仰ったそうです。二代金光様ね。はぁらもうほんなら忙しかけんでこれをして来てから、あれをいっちょ片付けてからと。
それは出来るかも知れんばってん、なら災難の方が、たとえばもうここに来ておるといった様な時です、それをよける事は、信によらなければ出来ないのに、その信の方を先の方に延ばしよったら、「果たして災難の方も、三日間待ってくれと言や、待とうかな」と仰ったという事。はぁもう今頃忙しゆうて忙しゆうて、大変おかげ頂いとりますから、お参りも出来ませんという信者に、四神様は「そりゃ気の毒じゃなぁ」とおしゃった。先日の古川先生のお話の中にもございましたね。
「忙しゅうなってそりゃ気の毒じゃなぁ」と仰った。「そんなら忙しくなか方がよかじゃないか。信心も出来たのに」とこういう訳なのです。だから忙しい事神様と言う時に忙しいとか、そういう事は言わずに信第一としての、言わばおかげを頂いて参りますならばです。成程信は天下の宝であるという事にも、なるようなおかげが受けられるという事をです、もうそれこそ卓があるなら、卓を叩かんばかりにしてからですねぇ、そのう平田さんはその事を力説しておられます。
私もそれを聞かして頂きながら、そうどころじゃないとこう思わして頂いた。そこんところをお互い信心の稽古をさせて頂いておる訳ですが。今日の御理解の中から、どうぞひとつ、神様の御守護をこんなにも身近に頂かして頂いておるというね。天地の守だけじゃない。私をお守して下さってある神様としてです、実感的に頂ける信心を頂く為にです、今日私が申しましたようなところを、ひとつ分かって信心させてもらったら、有り難い事ですね。
どうぞ。